7月 13 2015
まだパチスロに手を染めて間もない若い頃。
スロ雑誌を読むようになって
「設定6判別完了」
「これで見抜ける特大設定差発覚」
とか、そんなのに心ときめかせたり。
「技術介入100%で設定1でも機械割103%」
「減算値判別で456丸分かり」
とか、そんなのに目をぎらつかせたり。
こういった知識や技術を習得すれば勝てる、
なんて思った時期が僕にもありました。
いや、これらを武器に勝ってた人はいたわけで
僕はそれらも上手く使いこなせず勝てませんでした。
そして時が経つに連れて
多少は身に付いてくることもあって
判別が多少は分かるようになってきます。
でも今度は、その判別に騙されるようになる。
例えば
低設定で1/65536、
高設定で1/4096、
こんなフラグを叩けば、
もう上に間違い無いとぶんぶん回しまくる。
出玉が追いついて来ないのは
「何かの間違い」に過ぎなくて
高設定に間違いは無いと。
実際は薄いところ叩いちゃった方が
「何かの間違い」だったことに気付かないでね。
自分の中で
「そんなことない」「まだあり得る」
という前向きな気持ちが背中を押す。
ただただ地獄への道を進んでいるとも気付かずに。
そして、たった1回の「何かの間違い」が
本当に「間違い」だったことに気付いた時には
取り返しの付かない負け額を抱えている。
「騙された」と。
何に騙された、って自分に騙されたのにね。
希望、光明、確信、不安、疑念、焦燥、混乱、絶望。
パチスロと向かい合って
これだけ心理が動いていくわけです。
そんな経験を積んでしまうと、
1回くらい設定差のあるところ叩いても
「ふーん」としか思わなくなる。
やはり複数回は起こらないと信用ならない。
要素自体も多岐に渡ってないと
「だからどうした」としか思えない。
諦観から入るパチスロ。
これの方が何かとケガが少ないのは間違いない。
ただ長らく打ち続けてしまうと
低設定で設定差要素を
複数回叩いてしまうことだってあることを思い知らされる。
「さすがに」「なんで」「でも」「まさか」
とっくに悟ったはずなのに惑わされる。
ここら辺まで来ると
目の前の台の判別、というものに
諸行無常を感じ始める。
こうなると、やることが大分シンプルになってくる
レバーを叩く。上手に叩く。
設定6を打つ。店長が6に設定した台を打つ。
もうこの2つしか無くなる。
希望とか絶望とか通り越しちゃって
これを繰り返すだけになる。
ここまで来たら
卒業するか、一生打つかの
決断の時がやってくる、のかな。
もう僕はペースや内容が変わるにしても
パチスロを打ち続けるに違いないので、
とにかく楽しみ方や付き合い方を考える。
だから設定判別もするし
店のクセや当日の状況も観察するし
ヒキに一喜一憂する。
調子よければ気分よくなるし、
ヘコめば距離を置いて調整するし。
薄いところを叩く、
とは良く言ったもので
実はどんな役も大量の乱数から叩きだしたもの。
薄いところの集合体で抽選はできあがってるわけで。
人生は一期一会なんて言うけれど、
パチスロはそんな一期一会を凝縮したものなわけで。
だからあんまり不満を言うものでもないでしょう、と。
と。
そんなことを
設定判別が上で
ボロ負けをする日々を送りながら
考えてました。
ええ、普通に悔しいしグチも吐く
悟りには程遠い凡人なわけです。