先日、家系ラーメンとは家で作るラーメンの事だと勘違いしている妹が作ったラーメンを食べながらパチスロ収支を整理してみた。

トータルで1500円のプラス。

5月から6月にかけて勝った記憶がないにも関わらずプラスなのには驚いたが、貸玉ボタン3プッシュでマイナス域突入なのだからプラスと呼ぶのもおこがましい数字だ。

長期的な視点で見た場合、パチスロはホール側がトータルプラスになり易い仕組みになっている。
ホールが運営できなければ打ち手はパチスロを打てないのだから当然といえば当然だ。

言ってしまえばパチスロは打ち手が負ける事によって成り立っている訳だ。

金額の大小に関わらず、100%の勝率をキープするのは不可能と言い切って良い。
むしろ負けた時にどれだけ納得出来るかが大事になってくる。

明らかな設定1に現金を突っ込見続ければ納得いかないし後悔もするだろう。
設定6に座っても設定差がない部分を引ききれなかったことが敗因ならば自分のせいだと納得もできる。

そういった様々なシュチュエーションから生まれた負けによってパチスロは成り立っているのだ。

そうして、勝ちも負けも回り回って循環している。

今日自分が負けた5万は隣の人の設定6の出玉になっているのかもしれない。

利益として計上されて、店内の照明代に充てられているのかもしれない。

ひょっとしたらトイレットペーパーになっているかもしれない。

お気に入りの可愛い店員さんの給料になっているかもしれない。

回り回って翌日自分の元に出玉として帰ってくるのかもしれない。

新台の購入費用になっているかもしれない。

打ち手が消費した金額は、形はどうであれ打ち手が楽しむための何かに姿を変えて我々の元に帰ってきているのだ。

宗教に出てくる輪廻転生の様な考え方になってしまったが宗教的な価値観を主張している訳ではない。

こうでも考えなければ、かれこれ10年通っているホールに今年だけでも200万は設備投資をしているという事実に発狂してしまいそうになるだけである。

せめて、いつも指が第一関節まで入りそうな深いエクボを作って接客してくれるあの子の給料にしてあげてください。