フーリン

フーリン「あの椅子」

 

 

ホールには椅子がある。

パチンコ・パチスロ を打つ為に座る椅子、休憩コーナーで漫画を読む為の椅子、ホールによっては朝の並びで座る椅子なんてのもある。

筆者が所属する回胴連の中にホール内の休憩に使う椅子を「あぶれ椅子」と表現する選手がいるが実に秀逸なネーミングだと思う。

筆者が最も気になる椅子は一部ホールなどでは「フレンドチェア」などと呼ばれている観戦用の椅子だ。
つい最近名称を知るまでは「彼女とかが座る椅子」と呼んでいたのだが、正直なところあの椅子の意義がわからない。

パチスロ を打たない友人または彼女からしたら爆音の中それ程座り心地の良くない椅子にただひたすら座らされるというのは最早拷問だ。

ホールからしたら空き台に座られるよりは良いのかもしれないがあの椅子の存在が功を奏した事例というのは存在するのだろうか。

以前ホールで見かけたあるカップルとおぼしき2人組の話だ。

男性はドハマり、女性はフレンドチェアという位置関係で男性が台の下パネルに拳を叩きつけた。
次の瞬間女性は男性をそれこそゴミを見るような目で見つめ、黙ってフレンドチェアから姿を消した。

カップルなのだとしたら彼氏の幼稚な行動に幻滅したのだろう。
仮に友人だったとしても負けた腹いせに台を殴る人間の評価は最底辺まで落ちただろう。

台を殴った男性が悪いのであってフレンドチェアは悪くないが、この椅子が無ければこの女性は爆音の中待たされることも男性の行為に不快になることもなかったのではないかと考えさせられたエピソードだ。

パチンコ・パチスロ を打ってると目の前の台に集中してしまうこともある。

周りが見え無くなってしまうことが悪いこととは言わないが、フレンドチェアを使う場合は細心の注意を払うべきだ。

例えば連チャン中に500G乗せた瞬間、漫画喫茶1時間分の金額を手渡したりドリンクを差し入れする等が好ましいだろう。

フレンドチェア使用者にコインを詰めさせるなど言語道断だ。

そして何より、周囲の打ち手に対してのケアが重要だ。

フレンドチェアに座らせる相手が居ない者もいるという事を重々承知して頂きたい。

3000枚クラスの負けを背負っている中、フレンドチェアに美人を座らせてる光景はコインの別積み20箱以上の敗北感を与えるリーサルウェポンだ。

負けている者への福祉の心と椅子で待たされる者への配慮。
フレンドチェアを使用する方々は是非この2つを身につけていただきたい。

 

 

フーリン「お客様」

 

 

お客様は神様です。

などという言葉が一昔前に存在した。
学生時代に百貨店の菓子売り場でバイトしていた筆者も神様扱いされているお客や神様扱いを要求するお客を何度も見てきた。

そして、見る度にこう思ったものだ。

この人達は何かを得る為に金を払うという至極当たり前のことをしているのに何故神様扱いを受けるのだろうか。

サービスを受けたり欲しい物を手に入れる為に金を払う。
至極当然の事なのに何故敬われる事に違和感がないのだろう。

さすがにお客様は神様という扱いを今も愚直に実行している業界は少ないだろうがそれでも様付けで呼び、事あるごとに敬うという光景は色々な接客で目にする。

パチンコ屋でも目にする。

プロスポーツ選手並みの軸のブレなさ加減から繰り出されるお辞儀。

選挙演説する議員並みの声量で発せられる挨拶。

その圧力たるや、朝の入場時につられて挨拶してしまう程だ。

正直なところ筆者はお客様扱いされるのが苦手だ。
不満ではない。むしろ見ていて気持ちいいものではあるのだが苦手だ。

パチンコ屋に入る時皆さんは何を思って入るだろうか。

ホールの売り上げに貢献しようと思って入る人は少ないはずだ。

筆者の場合、数千枚のメダルつまりは数万円をホールからブッこ抜くつもりで入店している。

もちろん楽しむ事が前提だが、結果としてブッこ抜けるものならブッこ抜きたいというのが正直なところだ。

そう思えば思うほどにお客様扱いされると恐縮してしまう。

品揃え豊富な自販機と適度な威力のウォシュレット、そして笑顔の素敵な女性店員がいれば多少態度が悪くても構わない。

我々は神様などでは無いのだから。

仮に利益をもたらす者、つまりは負けて帰るお客を神様として扱うのであれば、その扱いは慎重に願いたい。

負けて帰る者が笑顔でお礼を言われる。
死者に鞭打つ鬼畜の所業だ。

負けて帰る者には慈母の如き優しさを、ブッこ抜いた者には世紀末覇者の如き厳しさを。
一辺倒に敬われるよりはこちらの方がよっぽど自然なのではなかろうか。

ここ数日、低設定の北斗救世主のラオウステージ並に世紀末覇者に会えそうで会えない状態を繰り返しているが、かといって慈母に会えたのかといえばそうでもない。

敬いは要りません。

だれか筆者を慈しんでください。

 

 

フーリン「小役カウンター」

 

 

パチスロ には色々なツールがある。

筆者が打ちに行く際カバンに常備するのは2つ。
小役カウンターと耳栓だ。

この話を知人にすると驚く人がいる。

ゴッドしか打たないクセに小役カウンターが必要なのか。と

心外極まりない話である。

ゴッドだって小役カウンターの使い道はあるのだ。

ハーデスであれば謎当たりや通常モードでの当たり回数を数えれば設定推測にだって使える。
凱旋ならリプ3の数とそこからのG-STOP当選数で推測ができる。

番長3でストックの数を把握するのにも使えるし、忍魂のチャンス目ヒット率算出もできる。

小役を数えるだけが小役カウンターの使い道では無い。

使い方に規定など無いのだから使いたいように使えば良いのだ。

パチンコ・パチスロ は今後規制でガチガチになるという意見もあるが、打ち手の思考に規制がかかることは無い。

ルールが変わるのであれば、ルールが変わってもどうすれば楽しめるかを自分で考えればいい話だ。

転生のあべしチェックやハナハナ系のBETランプからのリセット判別等の小技はライターや専業といった知識と行動力のある人々が編み出したものだ。

規制の結果生まれた訳でも、ホール側のルールとして生まれた訳でもない。

出回ってる知識を使うだけではなく、自分なりに考えて応用してみてはいかがだろうか。

ひょっとしたら貴方が考えた小技が全国区の主流になるかもしれない。

 

 

フーリン「筆者は言いたい」

 

 

有名人というものはどんな業界にも居るもので、そういう人物の人生の転機というものは得てして周囲に影響を与える。
とりわけ結婚というものは騒ぎが大きい。

福山雅治が結婚した際仕事を休む女性が急増。

アイドルグループの一員が総選挙の場で結婚を発表すれば大騒ぎ。

可愛すぎるパチスロライターの結婚がYahoo!ニュースに掲載。

ここ1〜2年、第一線で活躍する女性ライターの結婚・出産という話題をよく目にするがファンのリアクションは二極化しているように感じる。

祝福する側と結婚相手をディスる側。

見受けた感じでは祝福側の方が多い気がするが、ディスる側も確かに存在はしている。
「差し入れに使った金返せ」というワードを目にした時はシンプルに呆れてしまった。

筆者は言いたい。

現実を見ろ。

良い年した男性・女性だ。

彼氏・彼女がいない訳がない。

呪うのであれば結婚相手ではない。相手を惚れさせられなかった自分を呪え。

結婚相手をディスりたい気持ちがわからない訳でもないが、ハッキリ言ってそれはファンのエゴでしかないのではと思う。

ショックを受けるのは自由だが相手をディスるのは違う。

シンプルに「おめでとう」と言うだけで良いことなのではなかろうか。

人をディスる人間よりも、人を祝福できる人間の方がよっぽど魅力的だ。

余談だが、筆者は約2年彼女がいない。

筆者は言いたい。

嫁が欲しい。

 

 

フーリン「歴史は繰り返す」

 

 

世の中というのは面白いもので、同じ事の繰り返しで成り立っている。

文化祭や合唱コンクールで感極まって「このクラス最高っ!!」とのたまう女子はクラスが変わっても大体同じ事を毎年言う。

普段はサッカーを見ないのにW杯の時期だけ解説者の受け売りで自分の考えのごとく戦術を語る男は4年後も同じ様に語る。

聞かれてもいないのにわざわざ職場で雑穀入りオニギリを作った事とその良さを語る女性は来年には恐らくマクロビを語る。

上記の様な繰り返しが集まって歴史という物が出来上がっていくのだ。

パチンコ・パチスロもその繰り返しの時期が来ている様だ。

基準の見直し。

要は今までとは違ったパチンコ・パチスロが世に出るという事だ。

3000枚規制やら5.9号機やらパチンコの設定やらが取り沙汰されて久しいが基本的にネガティヴに語られる事が多い。

ここで気を付けなければならないのは現在語られている事の多くが「だろう」や「と思う」というワードが語尾に付くことだ。

どうなるかはその時にならなければわからないのだ。

4号機が5号機に変わる時も5.5号機が出る時も同じ様に「と思う」「だろう」が飛び交ったが、その時々で面白いものというのは生まれて来ている。

結局の所、基準が変わろうがどうなろうがパチンコ好きはパチンコを打つし、スロット好きはスロットを打つのだ。

思考停止と思われるかもしれないが筆者からすれば「基準が変わるからもうスロットは終わりだ」という方が思考停止に思える。

用意されたルールの中で常に楽しみを探し続ける事の方が難しく、そして面白いのではなかろうか。

そんな事を考えながら筆者の目の前で凱旋のデータカウンターは本日2度目の1480G迎える。

歴史は繰り返す。

マイナス収支も繰り返す。

 

 

フーリン「廻る廻るよお金は廻る」

 

 

先日、家系ラーメンとは家で作るラーメンの事だと勘違いしている妹が作ったラーメンを食べながらパチスロ収支を整理してみた。

トータルで1500円のプラス。

5月から6月にかけて勝った記憶がないにも関わらずプラスなのには驚いたが、貸玉ボタン3プッシュでマイナス域突入なのだからプラスと呼ぶのもおこがましい数字だ。

長期的な視点で見た場合、パチスロはホール側がトータルプラスになり易い仕組みになっている。
ホールが運営できなければ打ち手はパチスロを打てないのだから当然といえば当然だ。

言ってしまえばパチスロは打ち手が負ける事によって成り立っている訳だ。

金額の大小に関わらず、100%の勝率をキープするのは不可能と言い切って良い。
むしろ負けた時にどれだけ納得出来るかが大事になってくる。

明らかな設定1に現金を突っ込見続ければ納得いかないし後悔もするだろう。
設定6に座っても設定差がない部分を引ききれなかったことが敗因ならば自分のせいだと納得もできる。

そういった様々なシュチュエーションから生まれた負けによってパチスロは成り立っているのだ。

そうして、勝ちも負けも回り回って循環している。

今日自分が負けた5万は隣の人の設定6の出玉になっているのかもしれない。

利益として計上されて、店内の照明代に充てられているのかもしれない。

ひょっとしたらトイレットペーパーになっているかもしれない。

お気に入りの可愛い店員さんの給料になっているかもしれない。

回り回って翌日自分の元に出玉として帰ってくるのかもしれない。

新台の購入費用になっているかもしれない。

打ち手が消費した金額は、形はどうであれ打ち手が楽しむための何かに姿を変えて我々の元に帰ってきているのだ。

宗教に出てくる輪廻転生の様な考え方になってしまったが宗教的な価値観を主張している訳ではない。

こうでも考えなければ、かれこれ10年通っているホールに今年だけでも200万は設備投資をしているという事実に発狂してしまいそうになるだけである。

せめて、いつも指が第一関節まで入りそうな深いエクボを作って接客してくれるあの子の給料にしてあげてください。

 

 

フーリン「シンプルに打ちたい」

 

 

皆さんご存知の通り、4月を境にホールの景色が変わって来た。

ホールの強い日は真っ先に絆が埋まる光景を目にする機会が減って来たのだ。

とにかく絆、無難に行くなら絆、絆打ってれば勝てるといった一種のセオリーが崩れ始めて久しいが、そのきっかけの一端に番長3が絡んでいるのは間違いないだろう。

ビッグタイトルの続編として鳴り物入りでリリースされても結果として鳴かず飛ばずになる事も多いパチスロだが、番長3に関しては文句無しのヒット機種だ。

ちなみに、番長3に対する筆者の第一印象は最悪だった。
初打ちの帰り道で二度と打つことは無いだろうと誓った程だ。

その誓いは2日で破られた。

シンプルに「打ちたい」と思った。

年をまたいでヒットする名機と言われる台は新しいゲーム性のパイオニアである事が多い。
転生、初代まどマギ、番長2、北斗救世主、絆。

新しいゲーム性と出玉が相まって一種の中毒性を生み出す。

結果として「打ちたい」と思うユーザーを大量生産しているのだろう。

パチスロにおいて中毒という言葉はネガティヴなニュアンスが強いが、打ちたいと思えるのは当然ながら大事な要素だ。

打ちたいと思えるから解析を勉強し、ホールで経験値を積んで自分の得意機種に仕上げて行く。

パチスロというスポーツを楽しむ上ではとても大事なことの様に思える。

気付けばホールでは凱旋or番長3というルーティンが固まりつつある。

少なくとも後1年は得意機種の座が空位になることは無さそうだ。

 

 

フーリン「とりあえず1000枚」

 

 

コラムで何度か書いたが、現在のパチンコ・パチスロユーザーはとかく新台に対して厳しい。
5.5号機と呼ばれる新基準機が出回るようになって久しいが、新基準機は多くても純増2枚。ただ当てただけでは到底プラス収支に持っていく事が出来ない。

出玉が100枚に満たない事も多い。

とはいえ、出ないからつまらないという一言でその台を見限ってしまうのは実に勿体ない。
出玉が出ないという事はその台のポテンシャルを引き出せていないという事だ。

台を見限るのはポテンシャルを垣間見た上で判断するべきではないのだろうか。
ではどの様にしてポテンシャルを垣間見るのか。

1000枚。

ひとまず1000枚の出玉を出す事から始めてみてはどうだろうか。

上記の通り新基準機は通常100枚に満たない出玉で終わる事が多い。
その様なスペックで1000枚の出玉を得ようとすればかなりの出来事を起こす必要がある。
特化ゾーンへの突入、ボーナスの連打、大きな上乗せ。
新基準機で1000枚の出玉を確保する為にはこれらの出来事が必要になってくる。

私有財産を使った挙句100枚に満たない出玉で終わって良い気分で終われる人間はほとんど居ないだろう。

我慢しろとは言わない。

我慢までいかずとも、せめて猶予を与えてやってはどうだろうか。

パチスロ機は打ち手が憎くて出玉を出さない訳ではない。
自力でポテンシャルを出す事が苦手なのだ。

ダメっ子を見捨てない慈母の如くパチスロ機に接してみてはいかがだろうか。

 

 

 

フーリン「パブリックコメント」

 

 

パブリックコメントとは現在検討されている新しい規制に関して監督官庁が一般から意見を募る試みの事を指し、現在はパチンコ・パチスロに関して検討されている規制について監督官庁である警察庁が募っている。

正直、筆者はこのパブリックコメントに関してコラムで書くつもりは無かった。

興味が無い訳ではない。むしろ興味津々だ。
自分の人生でトップクラスに楽しいと思っているスポーツの分水嶺なのだから興味が無い訳が無い。

では何故書くつもりが無かったのか。
筆者がこの場でパブリックコメントに投書したか否かを表明する事に意味を見出せないからだ。

表明していないから投書していないという訳でもない。
投書したならば表明しなければならないという訳でもない。
また、表明するか否かを誰かに強制されるものでもない。

個人的にパチンコ・パチスロは楽しんだもの勝ちだと思っている。
風営法による規制にしろ業界団体による自主規制にしろ、打ち手は世に出された物を打つしか出来ないのが現状だ。

パブリックコメントを投書しようがしまいが最終的に世に出たルールと台で楽しみを探していくしかないのだ。
まだ決まってもいない、基準に沿った台が世に出た訳でもない現状で騒ぐのは過剰反応ではないかと考えてしまう。

断っておくが、パブリックコメントに投書する事を奨励している人々を否定するつもりは毛頭ない。
むしろ主張したい事があるのであれば大いに主張すべきだ。

だが、万が一パブリックコメントに投書しない人を否定する人が居るのであればそれは間違いだと思う。
新しいルールに対する向き合い方は人それぞれなのだから。

話は大きく変わるが、筆者行きつけのネットカフェでフードメニューの大盛りが廃止された。
大至急店内アンケートに大盛り復活要望を投書しなければならない。

 

 

 

フーリン「律儀な光景」

 

 

筆者の地元はヤンキーが多い。

恐らく地名を聞いたらヤンキーと年寄りしかいないというイメージを持つ方が結構居るだろう。

実際ヤンキーと年寄りの比率が全体の7割くらいであろう筆者の地元では未だに鬼浜に出て来そうな人々がバイクを爆音で走らせている。

そんな地元に里帰りした際、高速道路でリアル鬼浜に遭遇したのだがそこで見た光景がなんとも不思議なものだった。
所謂暴走行為をして居るにもかかわらず料金所でしっかり並んで居るのだ。

料金所に並ぶ事は普通のことなのだが暴走行為をしているのにそこは暴走せずに律儀に料金を支払っていたのだ。

筆者はこの律儀さに見覚えがあった。
パチスロコーナーに居る人々だ。

皆律儀にバー図柄を狙っているのだ。

天井まっしぐらな人もキレて強打する人も動画に出ているライターも皆一様にバーを狙うのだ。

旧基準機は変則押しペナルティもあるのでそうせざるを得ないのも判るが、今は大概どこから押しても怒られる事はない。

なのに皆律儀にバーを狙うのだ。
情報誌などに出ている推奨の打ち方は効率や設定判別を目的としているのだからそこにバー狙いが紹介されているのならそれはそれで問題ないのだろうが、効率と楽しさは必ずしもイコールではない。

例えば今ホールでメインを張ってる番長3。
この台はベルが要になるのだから通常時は変則押しした方が格段に楽しい。

実際そういった打ち方を紹介している人も稀に目にする。
せっかく押し順ペナルティという縛りが消えたのだ。
律儀に推奨打法で打つの事を悪いとは思わないがどうやったら打つと楽しいかを探ってみるのも一興ではなかろうか。

 

 

フーリン「一線を超える勇気」

 

 

人にはそれぞれ越えるのに苦労する一線というものが存在する。

TシャツをXLからLに落とす位ならまだ簡単な方だが、男女の友情は成立するとか宣言した後に一線を超えて男女の仲になるのはルビコン川を渡るよりも難易度が高いだろう。

しかし、世の中には軽一線を超える勇気を持ち合わせた人も居る。

ひょっとしたら本人達は自分に勇気があるとすら思っていないかもしれない。
むしろ努力している事を勇気の一言で片付けてしまうのは失礼にあたるかもしれない。

どちらにしろ筆者から見て彼らは尊敬に値する。

例えばパチスロ動画。
YouTubeにも実践動画を流すチャンネルが増えて久しいが、チャンネル専属の所謂パチスロタレントと呼ばれる人々が大半で有名ライターを起用している動画は少数派だ。

そういう人達は自らの意思で動画出演の道に足を踏み入れてる訳だ。
不特定多数の人に自分の姿を晒し、下手な事を言えば一気に叩かれる。

そういう世界に自分から踏み出した勇気は素直にすごいと思う。
このコラムを掲載させてもらってる回胴連HPにもスタッフ募集のリンクがあるが、出演者として応募した方がいるのであれば応募した時点で尊敬に値する。

一線を超えて新しい世界に足を踏み入れるのはそれだけ勇気のいる事だと思う。

少なくとも筆者には無理だ。
仮に動画に出るとしたらメキシコから来た覆面レスラーの如くマスクで顔を隠し、ルチャ・リブレを披露するくらいの事が必要になる。
ここまでやれば普段の筆者を知る人間にバレる事もないだろう。

Tシャツをサイズダウンさせるのもルチャ・リブレの習得も男女の仲も、次元は違うが一線を超えて何かを変えるという事に共通するのはやはり勇気だ。

自分の中で何かを変えたい、一歩を踏み出したいという人は洋服のサイズダウンから始めては如何だろうか?

その為に夜中のダブルチーズバーガーを我慢する。

そんな勇気をわたしは持ちたい。

 

 

フーリン「設定1でも100%」

 

 

最近パチスロの解析で良く目にする文言がある。

設定1でも100%のペイアウト。

技術介入要素の高いノーマルタイプで使われる事の多い文言だが、最近はART機でもリセット時はという条件付きで使われることがある。

世の中に1番多く存在する設定1をメーカーやメディアが打ち手に対してポジティブに表現する要素の1つだ。

要するに甘いという事なのだが、大事な事を忘れてはならない。

設定1はあくまでも設定1。

つまりは最低設定なのだ。

極端な物言いをすれば、あらゆる要素に対して冷遇されているという事だ。

状態が移行しにくい。

小役が落ちない、仕事をしない。

初当たりが遠い。

ペイアウトが100%を超えると言ってもこの面は変わらない。

設定1を打つ時のストレスは打ち手の誰もが少なからず経験しているだろう。

ペイアウトという何百万ゲームの試行の上で算出された理論値を頼りに設定1のストレスに立ち向かうのは正直なところ遠慮したい。

ベルが落ちず、1000円で20Gしか回らないハナビを打ち続けるにはGABAチョコレートを鼻血が出るほど食べても足りないだろう。

甘い台を否定はしない。
むしろ甘い台が出てくれるのは嬉しい。

甘い事を理由に立ち回るのも否定はしない。

だが打ちたいのはあくまでも設定6だ。
設定1でも100%を越える事が免罪符になってしまっては元も子もない。

とはいえパチスロに設定という概念が存在する以上、設定1を触る事を完全に避けるのは難しいだろう。
パチスロを楽しむ為には設定1だとしても前向きに打つ理由が必要だ。

そうなってくると設定1でも100%という文言を全面的に否定する事も出来ない。

パチスロを打つには根拠を持つ事が大事だ。
数値に支配されたパチスロというスポーツにおいて、ペイアウト100%超えという根拠は申し分ないだろう。

少なくとも、小役を並べさえすれば勝てるという根拠で6万負け中の凱旋を続行するよりは最適解と言える。

どなたでも結構です。
7枚目の1万円札をサンドに入れるのを思い留まる根拠をください。

 

 

フーリン「3分の1の純情な感情」

 

 

先日、筆者は生まれて初めてtotoBIGを購入した。

10口3000円分。

結果は6等が当選し払い戻しが570円。
完全なる赤字だが、完全なる運任せのゲームというのも面白いものだ。

6等が当たる確率は75分の1。
バジリスク絆でいう巻物の確率に近い。

お気付きだろうが、BIGの6等は宝くじを束で買ったら1枚は入ってる300円の当たりと同じような扱いの所謂オマケ。
ちなみに1等最高額6億円は理論上480万分の1だそうだ。
ここまで行くと流石に現実味は薄い。

ところが、3等以下ならかなり現実味を帯びて来る。

3等の確率は1万3千140分の1だ。

我々パチスロ打ちは常に6万5千536分の1だの3万2千768分の1だのといったフラグを追いかけている。

こう考えると普段からとんでもなく不利な勝負をしている気にもなるが、何も6万分の1級のフラグを引かなければ勝てないというほどパチスロというものは無情でもない。

筆者はパチスロで肝になるのは3分の1という確率だと考えている。

春先に導入されたアナザーゴッド・ポセイドン。

新基準機だけあって従来のゴッドシリーズよりもパワーは抑え気味だ。
つい先日GODを引いて600枚弱で終わった時は気絶しそうになった。

結局あの台はトライデントアタック1発目の3分の1を突破して222G以上に持っていけるかがすべてのカギとなっている。

3分の1がカギになっているのはポセイドンだけではない。

3分の1で高確移行。

3分の1でAT解除。

3分の1で特化ゾーン。

押し順当ても3択だったりする。

パチスロにはこんなにも3分の1がカギになっている台が溢れている。

地味な抽選確率だがここを制するだけでペイアウトは大きく変わる。

花形は6万5千536分の1のプレミアムフラグかもしれない。
しかしパチスロの持ち味を引き出す名脇役は3分の1位の軽めのフラグなのだ。

軽めのフラグだが、妙に3分の2に偏ることがある。

この偏りが絶妙に打ち手の精神を揺さぶるのだ。

精神が揺さぶられる事こそパチスロをパチスロ足らしめているのかもしれない。

 

そんな筆者は先日、女性から手痛い洗礼を受けた。

今年に入って4人目だ。
偏りに揺さぶられ過ぎて僕の純情はボロボロです。

 

 

フーリン「立ち回るのは苦手です」

 

 

昔からホール事情が厳しくなると言われるシーズンがある。

年末年始・お盆・ゴールデンウィーク。

この時期になるとパチスロ雑誌(あえて攻略誌とは書かない)の見出しに「立ち回り」という言葉をよく見かける。

ホールの稼働が上がる事に起因して設定状況が厳しくなる。
そのような状況下でG数や履歴から狙う台を見極めて勝率を上げようというのが雑誌が言う「立ち回り」だ。

要するにガチ勢と呼ばれる人々が行う期待値を探すと言うやつだ。

筆者はこの立ち回りと言うものが苦手だ。

「今日は立ち回って勝率の高くなる打ち方をしてみよう」とテーマを決めて入店し、良い気分で店を出た記憶がない。

そもそも、仕事でクライアントにキレて「は?何で?」とケンカになるのが筆者だ。
人生の立ち回りがド下手くそなヤツがパチスロの立ち回りが上手い訳がないのかもしれないが。

筆者が勝つ時は多くても2〜3台、下手したら移動を1回もせずに打ち続けた結果勝つというパターンが殆どだ。

現在のパチスロは高設定狙いよりもG数や履歴など目に見えている期待値を追いかける立ち回りが「勝てる立ち回り」という考え方が主流なのだと筆者は感じているが、その場合どうしても腰が軽くなってしまう。

どうにもこの「腰が軽くなる」というのが苦手なのだ。
苦手というか落ち着かない。

尻の軽い女子は好きだが、あちこち動いて落ち着かないのは嫌いだ。

パチスロを打つのは基本休日だ。
休日に朝からホールに出向いてる。
そういう時くらい好きな台にどっしり腰を据えて打ちたいのだ。

自分なりの根拠で打つ台を選びどっしり腰を据えた結果、高設定だったりしたら儲けもん。高設定ではなくても好きな台が打てれば上々の休日だと思える。

設定狙いよりも期待値を追いかける立ち回りが勝てるという流れができているのは「設定を狙う以前にそもそも高設定が無い」という考えの人が多いからなのかもしれないが、せっかく休日に打つのだから期待値の有り無しだけではなくてパチスロそのものを楽しむのも一興ではなかろうか。

 

 

フーリン「ディスり文化」

 

 

今から少し前、都議会のニュースが最盛期を迎えていたであろう時期にヤジは議会の華、昔のヤジにはある種の品があったという言葉を耳にしたことがある。

評論家やコメンテーターは独特の慣習などと言っているが、別に議会に限った話ではない。

日本人はディスるのが好きだ。

どんなものでもとりあえずディスっておけば無難と言わんばかりにディスりが横行している様に見える。

パチンコ・パチスロにしてもその例に漏れない。
新台特に新基準機になってからは出る台出る台とにかくディスられる。
もちろん賞賛もされているが圧倒的にディスりが多い。
新基準機というものをディスりの免罪符と思っているのではないかというくらいにまぁディスる

動画の演者さんに関してもディスりというのはある訳で、これに関してはツイッターなどのSNSでたまに目にするが大概はちょっとしたミスを挙げて「それでもライターかよ」的な文言でディスる。

ディスる事自体を悪とは言わないが、問題は中身だ

言葉を選ばないで言わせてもらえば内容が幼いのだ。

出ない、勝てない、クソ台、下手くそ、無知etc

たまに座布団をあげたくなる様な秀逸な物言いをする人もいるが、圧倒的に上記の文言が多い。

もう少し言い様がある気がしてならない。

機械に対してのディスりは負けた際の感情も込みであればまだ許容できないこともないが、人に対するディスりに関しては不快になることが多い。

ディスってる人々はその演者の方と同じシュチュエーションでカメラの前で流暢に喋る事ができるだろうか?
筆者を含めて大半の人間にはできないと思う。

時間がある時にでも想像してみていただきたい。
匿名性が高いとはいえ、自分の発したクソ台やらコイツは無知だ的な幼い発言が不特定多数の人間の目に晒されているのだ。

恐らくディスり文化は無くならないだろう。
なんせ4〜50代の議員と呼ばれる職についてる人々がヤジは華とか言ってるくら位なのだから。
無くならないとはいえ変えることはできると思う。

誰の目にも晒されても恥ずかしくない且つ個人を傷つけないオシャレなディスりが増える事を筆者は願う。

 

 

フーリン「感度の問題」

 

 

回胴連の試合だけに関わらずいわゆる「強い日」の店に行くと良く目にする光景がある。

50Gかそこそこ回されて夕方まで動かない台。

最近の台は高設定ほどリセット後に高確に行きやすいという特徴を持つ台も多いので高確が確認出来ずに捨てられ、他の打ち手もそれを知っているが故に動かないのだろう。

こういう台を目にすると、筆者としては非常にもったいないと感じてしまう。
高設定だからと言って100%高確に行く訳でないのであればその台が高設定である事を否定する要因にはならないのではなかろうか。

朝一高確に行かなかった、しかし小役は良く偶数挙動も示し結果として最高設定だという事もあり得るからだ。
以前のコラムでパチスロスタイルを足し算と引き算で例えたことがあるが、朝一高確否定で捨てた打ち手は恐らく足し算タイプの打ち手なのだろう。

良い要素がなかった時点で捨てる。

引き算タイプは良い要素がなくても他の部分に良い要素があればまだ打ち続けられる。

要するに感度の問題だ。

大きな設定差が見受けられない場合に「無い」と判断して捨ててしまうのか、それとも薄い設定差を見つけ出してそこに喜びを感じて打ち続けられるか。

薄いもしくは曖昧な設定差に喜びを見いだせるかの感度の違いで台を粘る人と捨てる人の違いが出てくるのだろう。

天井やゾーンを狙う期待値を稼ぐタイプの打ち手は曖昧な根拠を敬遠する傾向にある。
逆に高設定狙いをするタイプの打ち手は曖昧な根拠から粘って高設定を掘り当てる傾向にある。

筆者はどちらかというと後者のタイプで、曖昧な根拠を追っかける。
曖昧ではあるが、喜びとドキドキを味わう機会が長く得られるからだ。

それ故に自分が打つ台の設定差ポイントは薄かろうが濃かろうが極力頭に入れて打つようにしている。
感度をビンビンにした結果、曖昧な根拠に振り回され弄ばれ最後には財布の中身を根こそぎ奪われる事もあるが、長い時間ドキドキしている事自体が好きだ。

昔は曖昧なパチスロを打って結果として負けるのが好きではなかったが、今となってはこういう楽しみ方ができるようになった事を素直に喜べる。

たまにご飯には行くがその都度はぐらかされ、躱され、距離感が縮まったと思えばまた離れる。
そんな女子との曖昧なやりとりを楽しんでいるといつの間にか彼氏が出来てて徒労に終わる。
こんなやりとりも楽しめるようになったら、人生そのものがもっと楽しくなるのだろうか。

すくなくとも、半月では楽しいと思えませんでした。

 

 

フーリン「ランプの魔力」

 

 

パチスロを構成する部品で筆者が重点を置くものが4つある。
リールのデザイン、レバーの叩きやすさ、下皿の大きさ、ランプ。

特にランプに関してはかなり重要だ。
どのタイミングでどの様に、且つ何色に光るのか。
パチスロの評価としてランプの魅せ方は重要なファクターと位置付けている。

ノーマルタイプの巨頭、ジャグラーシリーズとハナハナシリーズはランプという点では絶対王者だ。
出目、音など全ての要素がランプという終着点に向かっているゲームフローは最早鉄板だ。

ランプが光る。

この一点だけでジャグラーとハナを打つ理由としては充分だろう。

絶対王者程ではないが筆者的にランプを上手く使っているのが大都技研の機種だろう。
番長シリーズ、忍魂シリーズの演出完結からBETボタンを叩いた瞬間にキレの良い音と同時にランプが光る演出パターンの気持ち良さもまた鉄板だ。

この2機種は通常時からボーナス非経由でラッシュに入るというフローとランプの価値観をBETボタンというトリガーを介して上手く魅せている。

上記に挙げたようにランプの光というのはパチスロにおいて気持ち良さを呼び込む魔力のようなものを持っているが、逆にランプが光る事でネガティヴな気持ちになる台もある。

リーチ目マシンだ。

アクロスシリーズやニューパルシリーズに代表されるが、あの手の機種はどれだけ早くボーナスの入りを察知するかがキモだ。
告知ランプが光るとある種の気不味さを感じる。

リーチ目を確認し、揃えたいのにリプレイが連続してランプが光った時「わかってたのに・・・」という恥ずかしさとも似た気持ちになったことがある打ち手も少なくないのではなかろうか。

ランプを光らせてはいけないと言うわけでもないし光ったからダセェという事でもないのだが「なぜ光っちゃうんだ・・・」と思ってしまうランプも確かに存在するのだろう。

光ればメダルが出る。

こんなにもシンプルな構図にも関わらず打ち手の感情をコントロールするランプ。

なんとも不思議な魔力である。

 

 

 

フーリン「地域最大級」

 

 

先日、地元に戻った際にとてつもなくデカいクシャミを耳にして懐かしい思いに浸ることが出来た。

筆者の地元には昔「くしゃみジジイ」と呼ばれる老人が存在した。
とにかくクシャミがデカいのだ。
ご年配は基本的にクシャミがデカいが、このじいさんは頭一つ抜けていた。

2キロ先まで聞こえるのではなかろうかという程のデカいクシャミは地区の子供たちの間では名物となり、地域最大級の称号を欲しいままにしていた。

 

 

地域最大級という言葉は実に便利だ。

便利が故に色々な場所で安易に使われる。

パチンコ屋もその一つだ。

地域最大級設置という言葉を掲げたポスターを見たことない打ち手は居ないのではなかろうか。
地域で1番設置している事をアピールする事が悪いとは言わないが、地域で1番のシマが閑古鳥ではネガティヴキャンペーンも良いところだ。

設置台数をアピールするのであればそれに見合った稼働もアピールするべきだ。
稼働をアピールするにはどうしても打ち手の期待感が高くなければ成立しない。

例えば10台のシマに2台高設定があるとする。
高設定でも必ず出玉が伴うという保証はないが見る人が見れば履歴でわかる可能性が高い。
そうなると打ち手はシマ全体に期待する。

期待して座った台が設定1だとしても確率の偏りで出玉が出る事がある。
そうなると益々シマへの期待感が高まる。

結果として5分の1が高設定で残りが設定1だとしても、期待感から稼働が付けばそれはもう店の勝ちだろう。

打ち手としてかなり都合の良い例えかもしれないが、地域最大級を掲げるならば稼働も最大級を目指していただきたい。

店前に地域最大稼働率と書いたのぼりやポスターを掲げる事が出来ればその店は安泰なのではなかろうか。

 

 

 

フーリン「マイナー台に光あれ」

 

 

筆者が良く行くホールで最近になって顔を合わせるようになった若者がいる。

筆者自身、比較的人見知りしない方だが彼は飛び抜けて人懐っこい。

こちらから質問した訳でもないのに既に筆者の脳内には彼の家族構成がインプットされてしまっているのだから相当なおしゃべり野郎だ。

そんな彼は21歳。
1つ上の先輩に誘われてスロットを始めたそうだが、その際の先輩の教えに筆者は衝撃を受けた。

絆さえ打ってれば問題ない。

そう教わって以来、彼は絆9割、ジャグラー1割の比率で打っているそうだ。
立ち回りに最適解はあっても正解はないのだから別に絆一辺倒という立ち回りを否定はしない。

実際問題ホールでの状況を見れば絆の信頼度は高い。
現状では絶対王者と言って良いだろう

強い日に絆に座れない=勝ちの目が消えたと考える打ち手もいるくらいだ。

だが、筆者が思うに絆を取れなかった時にどう動けるかで打ち手としての実力が問われるのではなかろうか。

具体的に言えばどれだけの数の機種に関して設定推測の知識を有するかが肝なのではないかと思う。。

その場合に大事になるのがマイナー台の存在だ。

世に現存する全ての台は万枚を出すポテンシャルを持ってリリースされるというのが筆者の持論だ。
つまりはバラエティコーナーに1台しか設置のない台も戦い方を間違えなければ勝てる可能性があるという事だ。

昨今の打ち手はバラエティに対してかなり冷めている気がする。

言葉は悪いかもしれないが、回胴連は好き者の集まりなのでバラエティだからという理由で設定が入っていないと判断する考えの方は少ないかもしれないが、市場という形で見るとバラエティは趣味打ちのために存在するという立ち位置だろう。

時間にゆとりのある方は是非一度マイナー台と呼ばれる台の解析を見てみると良いだろう。
ARTに入るだけで期待度700枚オーバーという台や、リセット恩恵が強い台がゴロゴロ存在する。

繰り返しになるが、絆だから強い。119%だから打つ。という考えを否定はしない。

ただ、この手法で立ち回ってる打ち手はそう遠くない未来にその術を断たれるのだ。
その時にパチスロを引退するのか、それとも他の台で楽しむのか。
パチスロの基準が見直しという分水嶺に立たされている今こそマイナー台に光が当たる事をねがう。

 

 

フーリン「閉店まで打つのは正解か否か」

 

 

読者諸兄の中に設定6を閉店までブン回した経験のある人はどれ位居るだろうか。
AT機の事故で閉店間際取り切れずといったパターンではなく、純粋にブン回した経験だ。

パチスロには制限時間というものが存在する。
何人たりともホールの閉店に逆らうことは出来ない。
おおよそ12時間の営業時間の中でどれだけの結果を残せるかというのがパチスロというスポーツのキモだというのが筆者の考えだが、高設定を閉店までブン回す事は正解なのだろうか?

高設定の場合理屈の上では出玉がプラスになる訳だから打つ時間が長ければ長い程プラスになる道理だが、それはあくまでも理屈の上での話だ。

高設定を打ち続ければ結果として収束していくだろうが、最大でも12時間程度という短時間で収束しきるとも思えない。
単日でプラスになったとしても全体から見れば若干の上振れでしかないし、マイナスになったとしても若干の下振れだ。

高設定を終日ブン回す事が目的だというのであれば何も問題無いが、打ち手というのはプラスを目指す人種だ。
極端な話、設定6を打って1000枚勝つよりも設定1を事故らせて5000枚出る方が嬉しいと思う人は多いだろう。

パチスロを打つ事を仕事量と捉えている所謂ガチ勢からは総スカンを喰らうかもしれないが、実際問題みんな勝ちたいのだ。

そう考えると高設定を閉店までブン回す事が必ずしも正解とは言えないのではなかろうか。

程良く出る台を程良い時間打ってそれなりに勝つ。

これが出来るようになると「パチスロは適度に楽しむ遊びです」という言葉が現実味を帯びるのではなかろうか。

ホール経営者諸兄。
われわれは貴方達が提唱する様に「適度に楽しみたい」のです。

なので、とりあえずは店内全6にしてみてください。