5月 4 2017
フーリン「ディスり文化」
今から少し前、都議会のニュースが最盛期を迎えていたであろう時期にヤジは議会の華、昔のヤジにはある種の品があったという言葉を耳にしたことがある。
評論家やコメンテーターは独特の慣習などと言っているが、別に議会に限った話ではない。
日本人はディスるのが好きだ。
どんなものでもとりあえずディスっておけば無難と言わんばかりにディスりが横行している様に見える。
パチンコ・パチスロにしてもその例に漏れない。
新台特に新基準機になってからは出る台出る台とにかくディスられる。
もちろん賞賛もされているが圧倒的にディスりが多い。
新基準機というものをディスりの免罪符と思っているのではないかというくらいにまぁディスる
動画の演者さんに関してもディスりというのはある訳で、これに関してはツイッターなどのSNSでたまに目にするが大概はちょっとしたミスを挙げて「それでもライターかよ」的な文言でディスる。
ディスる事自体を悪とは言わないが、問題は中身だ
言葉を選ばないで言わせてもらえば内容が幼いのだ。
出ない、勝てない、クソ台、下手くそ、無知etc
たまに座布団をあげたくなる様な秀逸な物言いをする人もいるが、圧倒的に上記の文言が多い。
もう少し言い様がある気がしてならない。
機械に対してのディスりは負けた際の感情も込みであればまだ許容できないこともないが、人に対するディスりに関しては不快になることが多い。
ディスってる人々はその演者の方と同じシュチュエーションでカメラの前で流暢に喋る事ができるだろうか?
筆者を含めて大半の人間にはできないと思う。
時間がある時にでも想像してみていただきたい。
匿名性が高いとはいえ、自分の発したクソ台やらコイツは無知だ的な幼い発言が不特定多数の人間の目に晒されているのだ。
恐らくディスり文化は無くならないだろう。
なんせ4〜50代の議員と呼ばれる職についてる人々がヤジは華とか言ってるくら位なのだから。
無くならないとはいえ変えることはできると思う。
誰の目にも晒されても恥ずかしくない且つ個人を傷つけないオシャレなディスりが増える事を筆者は願う。